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翠川 菜(HN)

Author:翠川 菜(HN)
SAIって変な人。
そう、ワタシは変な人。
だからこそワタシが私を見つけるための話し合い。
そんなことを考えて日々を過ごしてたりする、やたらお節介なネイリストSAI。

年齢? そんなものは存在しないっすよ。


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人に優しく(1時限目)

人に優しく

この言葉って道徳的ですね。

道徳的と道徳って何が違うのでしょうか。
そもそも道徳教育とは時代に合わせて進化すべき社会秩序。

じゃぁ社会秩序とはなんでしょうか。

子供には社会秩序という言葉をそのまま伝えてもいまいち伝わりません。
特に小学校低学年には伝わらないでしょう。

何故でしょう。
それは皆が経験した社会、学校が世界の全てだから。
年齢を重ねていくごとにその社会は一歩一歩広がっていくから。


じゃぁ学校という社会に道徳を入れ込むと何があるでしょうか。


イジメダメ!


これが一番でしょうかね。

じゃぁ大人の社会でイジメダメってどう言うことでしょうか。

戦争0(ゼロ)

これにつきますかね。
民族扮装やテロ、内乱などもここに含まれますかね。


大人はイジメダメ出来てますか?


自分達が出来ないことを子供に説明なしで押し付けてはいけませんよね。

じゃぁイジメとはなぜ起こってしまうのでしょうか。


私個人的にはイジメは成長に重要な過程だと思っています。
実際に自分が受けた経験も踏まえてです。


度が過ぎたものをいいと言う訳ではありません。


この内容は非常にナイーブな問題です。
イジメの悩みを抱えている子供に耐えろといっているわけではありません。
かといって死を選ぶことを良しとしているわけではありません。

子供時代を過ぎてきた大人たちが今何を道徳として伝えたらいいのかが問題なのです。

イジメがなくなればいい、そんなの戦争0(ゼロ)と同じことをいっているんです。

正当化するも違う。
否定するも違う。


この曖昧な境界線のない事象こそ道徳として教えていくべきなのではないでしょうか。

それは教科書にできるものでしょうか。
教えるという形のとれるものでしょうか。


私は考えさせるが正解だと思います。


続く。
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算数って

算数ってどうしたらいいの?
と聞かれたことがある。

学生時代だが家庭教師をやっていたため、そのような質問をされた。(女子児童四年生)

どうしたらいいの?というのはどういうことか。

その子は決して出来ない子ではなかった。
全く出来ないのならばともかく普通に出来る。
わからないところを説明すると理解し解き始める。

じゃぁ彼女の質問はどういうものだったのか。

どうしたらいいの?というのは扱い方のことなのだろうか。
それともそもそもの算数というものの存在意義なのか。

あのときの私にはそれは難しい質問でなんと説明したかも定かではない。

何かを知りたいという欲求を理論的にした場合数学的な表現に至る。
数式を用いて、さらには化学記号を用いて、物理的観点でも見るだろう。


宇宙って何?となったらそう表すしか説明ができなくなってくる。

言葉での限界。

言葉が地上ならば数式は宇宙。

私はそう思う。

国語は地上。もっと細かく表現するならば人間。
数学は宇宙。細かく言うならば生物以外といってもいいだろう。


数学と大きく括ったが理数系全般の代表としてその表現を使わせてもらう。



国語の中に数式は出てくるであろうか。
算数(数学)の中に意志疎通は出てくるだろうか。

そんな差である。

目の前に広がる日常すべてに吹き出しのように文字を思い浮かべてほしい。
全てに説明をつけたとき落下する物体にどのように説明をつけるだろうかだろうか。

落ちているところ、でもいいかもしれない。
でももっと厳密な表現も出来るはずだ。

地表において物体が落下するときの加速度が重力加速度という。
その値は g=9.8[m/s²] (偉人たちの成果)

等加速度直線運動を表す式
v = v0 + a t
x = v0 t + at²
v² - v0² = 2ax

とかなんとか。もっとちゃんとした前提というか状況がここに加わるわけだが。私は物理選択ではなかったので少ししかわからない。

つまり物体が落ちているときにはこんな公式的なことが起こっているのだ。

これは国語ではしっかり説明できない。


机ですら何故そこに立っているのか説明が出来ない。


世の中は国語だけではそこに確実にあるという表現が長い長い説明をするしかないのだ。

机がある。
なぜ床についているのか。
そもそも床は何故地上についているのか。

地球の引力により引き付けられた机が床にくっつくように自立していると説明するのか。

当たり前のことで日常感じることもない重力はどこに説明をいれたらいいのか。


目の前のことを全て説明するとなんとも言語、理数系的式により盛りだくさんになる。

書き込んでいたら会話なんて吹き出しに隠れてしまうほどだ。


では式だけで表せるだろうか。
それでは前提条件が説明できない。


つまりどちらも必要なわけだ。
どちらか一方だけでは世の中を説明できないのだ。
その準備が各国の言語であり(日本ではまずひらがな、英語圏ではアルファベッドから習うように)また式の基本である算数なのだと思う。


世の中を理解するために必要なもの。
この理解は解明ともいう。

つまり

算数ってどうしたらいいの?

決まったやり方を試していけばいいんだよ。

それ以上の答えがまだ見つからない。

何か良い答えをお持ちのかたはコメントでも教えていただきたい!

1+1=2が納得できない(その2)

さて、前回の続き。

どうやって説明する?

算数がなんで必要か。


私のなかで算数(数学)の位置付けは「論理的思考の育成」にすぎない。

例)
2+4=6 2×4+1=9
2+4=X 2×4+1=X
2+X=6 2X+1=9
X+4=6 2×4+X=9

上記はすべて同じことを示している。
数式として何だか変なことにはなっているが、分かりやすくするためにそうしているのでとっても許せない方はごめんなさい。

上記内容を言葉にする。(簡単な方)

2たす4は6
2たす4は何
2たす何は6
何たす4は6

「2+X=6」を例にして別の言葉にする。
★2に何かをたすと6になるんだけれども、何かってなんだと思う?
★アメを2こもってました。いくつかアメをもらいました。持っているアメは6こになりました。何こもらいましたか?


つまり言葉が数式になり完結していっている。
そこにはルールがあり2X=8となった場合×(かける)は省略してくっつけるルールになったよ。
わからないものを□じゃなくてX(エックス)にしたよ。

というものだ。

ルールが少しずつ変わって楽な方向になっているだけだ。

掛け算覚えるときにすでに×を省略する言い方を実はしている。
にしがはち。言葉なので気づきにくいがすでにちょっと数学的な言い方だ。
書いちゃうと24=8という崩壊を招くので書いちゃダメだが。

今計算式を取り出したが単純なルールのなかに当てはめていき問題を解いていく。

複雑と思われるものは今まで覚えた単純なものの組み合わせ。

ブロックみたいなものだ。


数字を使って使い方のそのルールを習っているにすぎない。


ルールを習うというのは普通の生活でもあることだ。(私はこの考え方ではないのでベストな例題ではないが)

ご老人は大切にしましょう(2)+困っている人を助けましょう(4)
=ご老人には席を譲ってあげましょう(6)
みたいなものだ。

まどろっこしく考えずルールの組み合わせを行ってみたら導き出せた答えが社会を作っていたりするも思う。

数学は考え方を育てる方法を色んな方向からアプローチしているのだと思う。


こうやって分析してみたりするのも数学的分野ともいえる。


理数系の人は文系の人にこんなことを言われた経験はないだろうか。
そして文系の人は理数系の人にこんな言葉を言ったり思ったりしたことはないだろうか。

理論的だ。と。

先に説明したようにまどろっこしい部分を排除してルールの組み合わせを行っているのだ。
理論的で全然いいのだ。

寧ろ感情論のほうが理論的な人間は難しく感じるかもしれない。
2、3回ねじれてることなんて多々あるから。

無理に数字になれる必要はないがその魅力が伝えられたら楽しいんだろうな。
円周率を見たときに宇宙が同じ次元の感覚になったように。

国語が肉付けなら算数は削ぎ落とし。
簡潔に書けとかが算数に繋がる。

分かりやすいようにそれぞれにあったものを使っているだけ。

紙を切るときカッターを使うかハサミを使うかの差にちかい。
好きな方で特化すればいいが知ってると世界はもっと面白い。

嫌われやすい算数だが数字になってくれば世界が広がる。

グラフの授業で生徒にグラフ化させてみたら面白そうだ。
自分を基準としてグラフにしてみよう。みたいなね。

いじめが起こりそうだとか言われそうだけど。
いじめはまた別の教科の時で。


私の今の結論。
算数は賢く見える論理的思考の基盤。
実は国語の発展。

1+1=2が納得できない(その1)

相も変わらずめんどくさい思考。

この問題は中学一年、「数と式」の分野で発生。
もちろん先生に質問しにいった。

当時の鈴木先生。

「先生、数と式が納得できません。そもそもなんで1+1=2なんですか。」

先生の答えはこうだった。

「横浜市立大学に数学の専門科があるからそこへ行くんだ!その疑問が解決するまで研究した方がいい!」

つまりは根本否定をしてしまって解けなくなってしまった数学の壁は大学にいかねばならないほどだと言うことだった。


そもそも文系で進学したが理数系だったため正直そこがわからなくても解くことはできた。

小学生の頃にも同じ迷宮に陥った。
円周率。


果てしない数字の羅列に目が回る。
その時数字と宇宙が同じ次元の感覚になった。


納得しないと前に進めない厄介な性格のせいで苦難を強いられる学生時代だが「解なし」以外は無理やり納得して進むことにした。


国語ではできなかった無理やり納得して進むこと。
なぜ数学でできたのか。


答えがそれしかない。
そこが一番だった。
どんな自分なりの公式を作ろうが最終的には先人が導き出した正確な完結されたものが現れる。

だがどこで使うの?というものも多々あった。

後の仕事に数学がそのまま関わってくる仕事というものは限定されてくるのかもしれない。

ただアパレルで働いていたら数学はいらない。
四則計算は数学範囲にはいれないとしてね。


じゃぁこの分野で何を学ぶのか。

統計をとったりするのには役立つ。
データを扱うならなんやかんや関わってくる。

でももっと広ーーーく考えてみる。

算数が嫌いな子は算数の必要性がわからないだけなんではないだろうか。
ただ根本的な脳構造による苦手な場合は除くが。

「算数がなんで必要なのか説明してみて?」

って言われてどれだけの大人(学生を終えている人全般)が答えられるだろうか。

「お買い物したときに消費税とかわからないじゃん?」
とか
「20%増量って言われたときどれだけ増えたのかわからないじゃん?」
などと説明するのであろうか。

そんなんでは苦手なものをやろうという動力源にまで至らない。

さてさて、どうやって説明する?

次回へ続く。

私は文字が嫌い2

前回から少々時間がたってしまった。

私は文字が嫌い2です。

前回は文章を書くことで漢字が書けるようになってきた話。


相手になにかを伝えるということは相手に伝わりやすいようにする必要がある。

★文章をまとめること
★読みやすい書き方をすること
★何を伝えたいのかを明確にすること

正直全部文章をまとめることに繋がるんですが。


私がよくやること。
相手に伝える方法。読み手を引き込む方法。

否定的な言葉を最初にぶつける。


例えば国語の話をしているのに「私は文字が嫌い」というタイトルをつける。

どういうことだろう?と関心を引くことでその後の論点が少し不安定でも引き込まれる文章が書ける。


起承転結を簡単にまとめるとこうだ。

【例】桃太郎を読んで(読書感想文)

(冒頭)
僕は桃太郎を読んで吉備団子くらいで鬼退治にはいきたくないと思った。

(起)…あらすじ
桃太郎は桃から生まれておじいさんとおばあさんに育てられ犬、猿、キジと共に鬼退治へいく。

(承)…正直な感想
鬼は皆を怖がらせて迷惑をかけてる。よくないことだと思う。

(転)…正直な感想とは違うものをぶつける
でも、鬼は危険だし危ない。桃太郎一人で戦いにいかないで吉備団子だけで犬、猿、キジを仲間にして退治にいくのはどうかと思った。鬼もかわいそうだ。

(結)…まとめ
吉備団子で仲間になって戦いにいってくれた犬、猿、キジはすごくいい仲間だと思う。でも僕なら吉備団子が欲しくても鬼退治へはいかないと思った。


少し雑なまとめだがこんな感じ。

これを読む人にしっかり伝えていきたいときこの軸に肉付けしていく。

なんでもそれの繰り返し。
読んでいる人が納得しちゃうような(転)が鍵となる。


そこに文字数制限があったらどうだろう?
使えない漢字があったら調べて文字数を減らして自分の言いたいことを伝えられるように入れようとするのではないだろうか。

★簡潔にまとめなさい

という問題が小学校高学年になると国語のテストで出てくる。
適当に書いていいというものではない。(当時は適当に書いていたが)
「簡潔」にというのは文字数を少なくして伝えろ!!!ということだ。

肉そぎ!

言葉だけ見たら恐ろしくマッドな感じだが肉そぎ!

ここで漢字が活躍する!


何とも逆の方面から出来るようになった。遠回りな国語。

文章を書くのが苦手な子は漢字も苦手だろうな。
何なら国語と聞くだけで涙が出てしまうかもしれない。

でもそういう子ほど取り繕わない面白い文章が書けるのだと思う。

ただ書くのではなく誰に伝えたいのかを明確にしてあげるだけで、どうにかこうにか伝えようとしてくれるのではないだろうか。

ただ読書感想文を書くように言う、ただ日記を書くように言うのではなく先生にその本が面白そう!その日はどんなに楽しかったのかな?と思わせるものを書いてきて!といったら皆必死にかいてくれるのではないだろうか。

そしてそこまでできてはじめて赤ペンの意味が出てくる気がする。

見てほしい、読んでほしい人がいる。伝えたい人がいる。だからこそ文字を使いこなす必要がある。
それこそが国語でもっとも大事な事なきがする。

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